〜明るいけど、すこしブルーな日々〜




Xの悲劇/エラリー・クイーン/新潮文庫

 婚約発表をすませたばかりの株式仲買人が満員の市電の車中で、ニコチンの塗られた針のついたコルクボールによって殺害される。その後、その電車の車掌が警察に犯人を知らせようとするが、果たせず遺体となってハドソン川で発見される。さらに、3度目の殺人事件が起こり、そこにタイトルともなるダイイングメッセージが残される。

 バーナビー・ロス名義で発表された悲劇四部作の第一作で、クイーンの生んだもう一人の名探偵、元名舞台俳優だが耳が不自由というハンディを背負ったドルリーレーンの登場譚。

 私が中学1年生の時に読み、その後のミステリー人生の扉を開いた決定的な1冊。ミステリーとしてのトリックというよりは、完全なプロットによって読ませるもの。事件に携わる登場人物の配置やその動機付けも練られたものでじれったいくらいに分厚く作られている。また、対決する側のサム警視とブルーノ検事とレーンの微妙な関係も描きこまれており、途中で別の容疑者を犯人と断ずるサム警視を論駁するシーンも絶妙。もちろんお約束の名探偵による解決の結末も、王道を行く完璧な展開。ストーリーのあちこちにばらまかれとりちらかったピースを美しく並べて提示し、たった一つのものを再構成してみせる名探偵に、初見から四半世紀以上が過ぎた今読んでも、まったく同じようにしびれてしまうのである。これこそがミステリーの真髄ともいうべき何かが本書にはあるということなのかもしれない。

 世の中では、ドルリー・レーンシリーズではこの次の『Yの悲劇』を最高傑作とする傾向が強いが、私は別の意見である。初恋の相手であることを差し引いても、エラリー・クイーンの、というよりいわゆる「本格推理小説」の最高傑作はこの『Xの悲劇』である。

(★★★★★)



Yの悲劇/エラリー・クイーン/新潮文庫

 ニューヨークの富豪、ヨーク家の当主で化学者のヨーク・ハッターの自殺死体がニューヨークの埠頭で発見された。奇矯な振る舞いの人間の多いハッター家で唯一正常であったといってよいヨークの人生はこの一家によって不遇なものとなっていた。その2ヵ月後、ハッター家で奇怪な事件が起こり始める。毒殺未遂、マンドリンによる殺人、火災。三重苦のハンディキャップを負う長女は殺人事件のあった夜に犯人と接触し、そこにヨークの香りを認める。

 Xの悲劇に続く、名探偵ドルリー・レーンの第2の悲劇。前作が狡知に長けた犯罪者が練りに練った犯罪計画に対して、合理的な推論を組み立てていく名探偵の理性の勝利の物語とすれば、本作は非合理的な人間の犯す犯罪に対する理性の混迷の物語といってよい。いったんはその理性によって勝利する探偵が深く犯罪の中に潜む更なる真正の悲劇に直面せざるを得なくなる。その分本格ミステリーとしての骨組みはXに比べれば単純だが、探偵の苦悩が深く表現されている。エラリー・クイーンにとって、探偵とは何かという問題の萌芽がここにあるといえば言いすぎだろうか。あるいは、悲劇シリーズの演出的色彩として付加されたこのシェークスピア名優のハムレット的苦悩を描くことが、探偵小説の宿命的問題のパンドラの箱を開けてしまったのかもしれない。

(★★)



Zの悲劇/エラリー・クイーン/新潮文庫

 悲劇シリーズの3作目は、前2作と風合いががらりと変わり、語り手はサム警視の娘で私立探偵のペイシェンス・サムとなり、ドルリー・レーンは老いを深めている。ペイシェンスらは依頼を受けた鉱山会社の経営者のアイラ・フォーセットの身辺調査を進める中、アイラの弟ジョエル・フォーセット上院議員の刺殺事件が発生する。いくつかの状況証拠により、アーロン・ドウという男が逮捕され、死刑を宣告される。ペイシェンスらはドウの無実を解明しようとするが、さまざまな障害と対峙することに。

 もし、本作だけを独立して読んだとしたら正直高い評価をつけることはできないのではないだろうか。本格ミステリーを本格たらしめている何かが感じられない。高齢のせいかレーンの推理には、名探偵が誰もが有している何人をもひれ伏せさせるようなカリスマは見えにくい。しかし、本作はやはり悲劇4部作の最大の悲劇へ導くための大きな伏線(ペイシェンスの登場という)であると見るべき1作であり、幕間の小品とみれば、もちろんそこらのチンピラ探偵小説などと比べれば、十分楽しめる一品である。

(★)



レーン最後の事件/エラリー・クイーン/創元推理文庫

 名探偵ドルリー・レーン最後の事件。サム元警部の探偵事務所に寄せられた二つの奇妙な依頼が事件の発端である。これらの依頼は、調査が進むに連れて、シェークスピアの初版本を巡る事件であることが判明する。この本には世界文学史の秘密が隠されており、それは調査を行うペイシェンスやレーンにも影響が及んでくるものであった。ついに殺人事件が発生し、ペイシェンスらは解決に乗り出すが…。

 私は、残念ながら本作を読んだとき既に本作のメインとなるトリックを知っていた。これはクリスティの『アクロイド殺害事件』のトリックも既知の上で読まざるを得なかったことと同様に痛恨の一事である。もし、そのトリックを知らずに読んでいたら得たインパクトもまるで違っていたであろうし、本作の多くの弱い点を補って余りあるものであったにちがいないと思うのである。

 悲劇シリーズはこのトリックのために書かれたシリーズであろうと思われるが、X、Yの飛びぬけた完成度の高さと比べるとどうしてもあとの2作の平凡さが目についてしまう。本作が最大の傑作となるべきであったのに、もはや本格ミステリーとしての旬が過ぎ去りつつあるかのような印象すら持ってしまうのである。ほんとうにもったいないと思う。

 それにしても、今でも、○○の悲劇というタイトルが再生産されているが、あれはどういうものだろうか。クイーンの悲劇シリーズにはこのタイトルである必然性があったし、やはりオリジナリティがあった。創作者としての意気込みがあるのである。それを安直にもってきて作品の空気を努力なしにもってこようとする姿勢には肯じえないものがある(もちろんすべての後続作品がそうだというわけではないが)。

(★★)



ローマ帽子の謎/エラリー・クイーン/創元推理文庫

 エラリー・クイーンの処女作にして、探偵エラリー・クイーンの登場第1作。ギャング劇が満員御礼興行中のブロードウェイ・ローマ劇場の客席で正装の悪徳弁護士の毒殺体が発見された。事件発生後、死体からは被害者が被っていたはずのオペラハットが消失しており、劇場がくまなく捜査されたが、帽子を持ち出した観客もなく、どうしても帽子は発見されない。エラリーは帽子消失の謎を追いつつ、真相に迫る。

 中学生の私が読んだエラリー・クイーンのミステリーでは4作目にあたり、ドラマのなさ(一つの殺人事件であれだけの長さを引っ張るのは、現代日本のミステリーでは許されないのでは?)とペダンティズムに閉口した記憶が強い。じっくり見ればそのペダンティズムにクイーンの遊び心を楽しまなければいけないのかもしれないが、本ストーリーがスピード感を持って流れないので、やはり辛いところ。古きよきミステリーの中に流れる時の流れを感じつつ、読むべきであろう。事件解明の際にエラリー本人がいないというのも、異色といえば異色。

 国名シリーズ第1作ということで、おなじみ「読者への挑戦状」などの原点がここにあるわけで、それだけでも読む価値はあると断言できる。中学生の私を退屈なストーリー展開(失礼!)にもめげず、結末まで引っ張ったのは、やはり結局はクイーンの稚戯だったわけである。ところで、ローマは国名ではないのだが…(あ、ローマ帝国か。シャムも現代じゃないし)

(★★)。



フランス白粉の謎/エラリー・クイーン/創元推理文庫

 ニューヨーク5番街の大百貨店「フレンチス」のショーウインドーからフレンチス会長夫人の銃殺死体が現れるという、派手な幕開けで事件がスタートする。彼女の娘も時同じく行方不明になっており、事件を追ってクイーン父子が捜査に乗り出す。さまざまな関係者が登場するとともに、エラリーはデパートを舞台にした麻薬密売事件を突き止める。麻薬事件が会長一族にもたらした悲劇の結末は。

 私は中学生の時に本書を初読したが、『ローマ』に比べると格段に読みやすい印象があった。怪しい人物が次々登場し飽きさせないし、ストーリーは本格らしい起伏を持ちつつ、停滞することなく転がっていく。解決部分はエラリーが推論を組み立てつつも最後まで犯人を明かさず、最後の一行でそれを告げるという案外ありそうでないアクロバティックな構成となっている。世上あまり評価が高いようには思えない本作であるが、国名シリーズ中でも相当レベルの高いできばえであると私は評価している。ちなみに私が国名シリーズで唯一犯人を当てることができたのも本作である。もちろん、読者が犯人を突き止めることができたこととその作品の価値には基本的に有意な関連はないと思うが。

(★★★)



オランダ靴の謎/エラリー・クイーン/創元推理文庫

 ニューヨークのオランダ記念病院に、意識不明になった百万長者の老婦人ドールンが、運ばれてきた。エラリーは彼女の手術を見学することとなっていたが、手術を開始しようと白布をめくると彼女はすでに針金で絞殺されていた。外科医ジャニーに扮した人物が手術台の彼女に接近したらしい。そのとき病院には彼女の関係者が多数出入りして容疑者には事欠かないが決定的な証拠は発見されない。そんな中で、外科医のジャーニーも殺害されてしまう。犯人の擬装用の遺留品が発見され、エラリーは推理の根拠を得ることに成功する。

 エラリー・クイーン国名シリーズでは最高の出来であろう。クイーンにほれ込んでいる日本の新本格作家の多くが本作を最も評価している。つまり、クイーンの論理構成力、つまり推理小説解決部のコアが好きな人には垂涎の一品である。やはり同じ性癖をもつ人間にはわかる世界なのだろう。同志を見つけたことやそうした人々に対してシンパシーをもつことの嬉しさはもちろんあるが、『Y』だ、『エジプト』だという世論に対して、自分が真っ先に「いいや『オランダ』だね」と世に向かって言ってみたかったとも思うのである(ミステリー小説としての総合力はやはりエジプト十字架に軍配が上がろうが)。

 推理小説中にある論理とは、論理学的論理ではない。蓋然性の積み上げから導き出される一つの方向感である。蓋然性をどのように料理するのかが本格ミステリ作家の手腕であり、その意味でエラリー・クイーンは国名シリーズで究極に達したといえる。

(★★★★)



ギリシア棺の謎/エラリー・クイーン/創元推理文庫

 若き日のエラリーが登場する本作は、国名シリーズ最長にして最も複雑な事件。急死した美術商ゲオルグ・ハルキスの葬儀が行われる中、彼の残した遺言書が消えてしまう。大学を卒業したばかりのエラリーが登場し、得意の論理的推理で、遺言書はハルキスの棺の中であると指摘する。しかし棺をあけると、ハルキスの死体の上にもう一つの前科者グリムショーの死体が転がり出ることとなる。捜査の中で見え隠れするハルキスやグリムショーの周囲の人々の不審な動き、そしてエラリーは犯人を突き止めたかに見えたが、その推理は新証言によって破綻をきたす。第2の殺人が起こり、事件はさらに混迷を深めていくが、ついにエラリーは真相へたどり着き、真犯人に対して罠をしかける。

 エラリー・クイーンが自ら創造した名探偵に、その探偵としての能力以外の生身の人間としてのキャラクターを与えようとした作品。事件を物語る創作者と同じ名前が与えられた探偵は、登場の頃は探偵は事件のそえものである種のナレータに過ぎなかったに違いない。しかし、クイーンは、探偵が小説において、「機能」であるだけでなく、明確な意思をもったキャラクターであることを選んだのである。その意味で、本作も「探偵とは何か」をクイーンが模索した一つの回答であることが見てとれる。

 本格推理小説としての本作はまさに力作。エラリーが苦戦し誤った結論へと進んでいく推理のプロセスにもいささかの手抜きもない。絢爛豪華な推理スペクタクルが楽しめるといったら言い過ぎか。結末で読者が得られるカタルシスは、あらゆる推理小説の中でも屈指のものであると思う。スマートさでは『X』や『オランダ』に、小説としてのできばえは『Y』や『エジプト』に引けをとってしまうが、それでも本格物の大傑作であることは疑いようもない。

(★★★★)



エジプト十字架の謎/エラリー・クイーン/創元推理文庫

 クリスマスの朝、ウェスト・ヴァージニア州の小さな町アロヨで、交差点に立つ道標に首を切り落とされはりつけにされた小学校校長アルドルー・ヴァンの死体が見つかる。彼の家の扉には何故かTの文字が描かれ、下男が失踪。警察もエラリー・クイーンも、犯人やその異常な行為の意図について何も明らかにすることができずにいた。その六ヵ月後、ニューヨークのロングアイランドでまったく同じように敷物輸入商のトマス・ブラッドのはりつけ死体が発見され、無関係にしか見えない二つの事件は、新しい展開を見せ始める。エラリーは、その後も発生する殺人事件の最後についに決定的な証拠をつかみ、T字型のエジプト十字架の謎を解き、犯人を追いつめる。

 クイーンの国名シリーズ中最高傑作の呼び声の高い本作は、それまでの国名シリーズの雰囲気と明らかにちがうそれを持っている。犯罪が起こる空間が広がったことで、エンターテインメントとしても読者を引っ張るパワーを持ち得ているのである。その後のクイーンの小説にこうした新しく得た何かが成長していっているのかどうかは評価しにくいものがあるが、少なくとも本作ではうまくいっているといえよう。

最後の結末の醍醐味は、いくつもの材料から仮説を作り論理を構築していくという種類のものではなく、ある一つのてがかりによって、それまで不透明でクリアでなかったものが一気に見通せるようになるという点で、大きなカタルシスを得ることができる。すこしすれたミステリー読みには、ちょっとできすぎじゃないのかと思われてしまいそうだが、私が中学生の時に初めて読んだときは、何かの奇蹟にふれたような気さえしたものであった。米国の本格推理黄金期における一つの金字塔であることはまちがいない。

(★★★★)



アメリカ銃の謎/エラリー・クイーン/創元推理文庫

 ニューヨークのコロシアムで行われるウエスタン・ショウにおいて、二万人の観客が見守る中、騎乗のカウボーイたちが一斉に銃を撃った瞬間、往年のスター、バック・ホーンが馬からおち、馬蹄に蹂躙された死体となってころがった。カウボーイの銃はすべて空砲で45口径、犯行に使われた銃弾は25口径。このコロシアムでショウを偶然観ていたクイーン父子が誰がこの謎に挑むが、事件は再度ショウで引き起こされ、ホーンの娘の恋人が犠牲になる。

 華々しい舞台とケレン味たっぷりの事件が本作の中心であるが、犯人の行動や意図にリアリティ(本格物の文法のなかにおける“リアリティ”でさえ)が感じられず、その土台の上に構築される推理も当然のことながら論理の冴えが陰をひそめている。傑作続きの1年を経て、ちょっと疲れたか。いずれにしても、クイーンの国名シリーズの中では、もっとも凡庸な作品といえよう。

(★)



シャム双子の謎/エラリー・クイーン/創元推理文庫

 クイーン父子はインディアン集落の山中で、突然の山火事に追われ、いわくありげな館の客たちが逗留するゼーヴィア博士の館矢の根荘にたどり着くが、そこで、館主ゼーヴィアの殺人事件と遭遇する。ダイイングメッセージの意味するところは何か、そしてシャム双生児はこの悲劇に関係があるのか。外界と途絶され、しかも終末が迫ってくる究極のクローズドサークルで、父子は事件の捜査に乗り出す。

 クローズドサークルものとしては、この山火事はかなり特異な設定であるが、独特の雰囲気を持つストーリーとはよくマッチしている。シャム双生児の取り上げ方が、是非はともかくホラー風(カー風?)でサスペンスを盛り上げているが、本作のメインストーリーへの絡み方は薄い。結局、解決への推理はクイーンとしてはきわめてオーソドックスな展開を見せており、終わってみるといつものクイーンだったという印象をもってしまう。

(★)



チャイナ橙の謎/エラリー・クイーン/創元推理文庫

 ニューヨーク、チャンセラーホテルに居を構えるドナルド・カークは出版業を営み、切手や宝石の収集に興味を持っていた。その日、見知らぬ男がドナルドを訪問し、彼の秘書オスボーンに不在を告げられると控え室で待つこととなった。エラリーと共に帰ってきたドナルドは、控え室内で殺害されているその男を発見する。現場の状況はエラリーも理解することができなものだった。死体は服を前後逆に着せられ、部屋の調度品類も壁へ向けて動かされるなどあべこべの状態だった。

 発表当時本作は米国で絶賛されたらしいが、国名シリーズのいつものクイーンの作風とはやや異なり、設定されている謎が寓話風でひとひねり効いている印象である。しかし、その解明の手法はクイーン的であるし、アフォリズムをきかせて意味を持たせようというようにも見えない。少なくとも国名シリーズでは初期の作品を嗜好する者としては、パズラーとしてやや弱い本作が、過去に絶賛されたといわれても高い評価はしにくいものがある。

(★)


スペイン岬の謎/エラリー・クイーン/創元推理文庫

 大西洋に突き出したスペイン岬にあるウォルター・ゴットフリーの別荘で事件は起こった。ウォルターの娘ローザと夫人の弟デイヴィッドが誘拐され、ローザは解放されるがデイヴィッドは別荘の客であるマーコと間違われ殺されてしまう。発見された時、なぜか死体には着衣がなく裸であった。バカンスでこの地を訪れていたエラリー・クイーンが事件解明に乗り出す。

 前作の『チャイナ橙』に続き、不思議な状況をコアの謎に据えているが、本作の方が無理がなくその分驚きも小さい。また、本作は、9作の国名シリーズの締めくくりであり、完成された長編としては最後の「読者への挑戦」挿入となっている。すでに、シリーズ初期のものと比べると読者との対決に必要となるいくつかの要素が弱くなってきていること(そのことは、この後のクイーンの展開をみてもわかるとおり、ネガティブな評価をするものでは決してない)は明らかであり、そのことは、パズラーとしての最高峰であったシリーズが終わったということを意味するものである。もっともっと国名シリーズが読みたいと思った少年時代、しかし読めば読むほど期待していたものと違ったものと直面するようになったクイーンと(すくなくとも私は)お別れする時が来たという印象の残っている作品である。新本格派の人たちはその埋めがたい欲望を満たすために自らそれを創りだしているということなのではないだろうか。

(★)



海底牧場/アーサー・C・クラーク/ハヤカワ文庫

 南太平洋の牧鯨水域の監視員として訓練を受けるウォルター・フランクリンは、優秀な練習生としてトレーニングをこなしていくが、教官のドン・バーレーは彼には暗い過去があることを感じていた。それは、宇宙空間で発生した事故で極度の広所恐怖症にかかっていたことであった。その後彼は着実に監視員としての業務を重ねていく。そして最後に仏教の教えと巡り会い、牧鯨に疑問を感じる。

 青い海を中心に映像が美しくイメージできる海洋(?)小説。ストーリーもウォルターの成長が人類の成長に重ね合わせられているようであるが、他方少々説教くさい感じも否めない。人の考え方が単純に方向感として認知できた時代の小説だからだろうか。

(★★)



渇きの海/アーサー・C・クラーク/ハヤカワ文庫

 砂より軽い塵(ムーンダスト)の海のエリアは、砂上遊覧船が行く月面の観光名所であった。しかしある時、月の内部地殻変動によって、船はムーンダストの中に飲み込まれてしまう。再び水面のような静けさを取り戻したこの乾いた海で、遭難地点の判明すら困難な中、船の酸素が持つ間に救助活動は成功するのか。

 クラークの作品に共通しているのだが、映像の迫力をもって、月の美しく静かだが、地獄のような環境が描かれていく。

(★★)



重力の使命/ハル・クレメント/ハヤカワ文庫

 重力の非常に大きな惑星メスクリンに住む知性体はムカデのような体型をした生物であった。地球の調査隊は衛星軌道上にとどまり無人観測機をおろして調査をしていたところでメスクリン人の商人バーレナンと接触する。垂直方向への認識を著しく欠くメスクリン人であったが、バーレナンは地球人の支援のもとで冒険をクリアしていく。彼は地球のすべての科学技術を欲し強行手段にでるが、地球人から科学技術は積み重ねていかなければ習得できないと説得される。最後に彼は気球で空中へと飛び出す最初のメスクリン人となる。

 極端な世界を設定しその世界で起こりうることを科学的に説いてみせるスタイルのハードSF。メスクリン星のバーレナンの科学への渇望と夢の実現のために内なる怯懦と戦う姿は感動的であり、人類の姿がそこに映し出されている。夢のある一作。

(★)



九マイルは遠すぎる/ハリイ・ケメルマン/ハヤカワ

 郡検事の私が英語・英文学教授のニッキイ・ウエルトと相談しながら奇妙な事件を解決する安楽椅子探偵物短編集。「九マイルもの道を歩くのは容易じゃない、ましてや雨の中となるとなおさらだ。」というセンテンスから、犯罪を探り当てる標題作の『九マイルでは遠すぎる』ははったり論理展開が楽しい傑作。

 ホームズが、依頼人に対して見せるはったりの部分だけをとりだして小説にしたようなこの作品は、ある意味で本格ミステリーのスケルトンを提示したようなものである。現実の警察の捜査をあざわらうような名探偵の名推理の現実離れした本質が暴かれている。これを楽しめない人には本格ミステリーを読むことはお薦めできない。ちなみに標題作以外の小編群はどれも(九マイルに比べれば)いまひとつ。

(★★★)



検屍官/パトリシア・コーンウェル/講談社文庫

 ヴァージニア州リッチモンドで女性ばかり狙われる連続猟奇殺人事件が発生する。主人公ケイ・スカーペッタは州の検屍局長で、この事件解決に取り組むが、容易に犯人像が絞りこむことができない。彼女自身、被害者の女性への深い同情を持ち、プライベートの生活に悩み、プロフェッショナルとしては女性であるがゆえに組織内でのさまざまないやがらせや妨害に苦しむ。彼女は事件とともに傷つき、苦悩し、それでも動き続ける。 次第に犯人が特定され、終盤は大団円へ向けて一気に加速する。

 構成力抜群。米国社会の女性キャリアの苛立ちが全編の雰囲気を構成しており、1件目の殺人事件の被害者に対するケイの気持ちが巧妙に記述されて、その後の組織の中の事件への心理的伏線にもなってうまくきいている。キャラクターの造形もすばらしく、主役級以外の細かい人物構成が緻密。特にマリーノ刑事のポジションが主人公を際立たせており、ストーリーテラーとして相当な手だれの技である。

 謎解きは後半に集中しており、前半は猟奇犯の様子がこれでもかと繰り返される。シリーズ化されていくわけだが、このレベルをキープしていったのか。

(★★)



証拠死体/パトリシア・コーンウェル/講談社文庫

 バージニア州の女性検屍局長であるケイ・スカーペッタシリーズの第二作。美貌の女流人気作家のベリル・マディソンが自宅で殺害される。彼女は何物かに脅迫されており、キイ・ウエストに身を潜めていたのだが、なぜかリッチモンドに帰り、その晩に襲われてしまう。用心していたにもかかわらず彼女は、何故犯人を家に入れたのだろうか。この事件を捜査するケイのもとに、かつての恋人であるマークから連絡があり、ベリルとその執筆中の自伝のこと、それを狙うマークの同僚弁護士アパラチーノのことなどが伝えられるが、このマーク自身が不審な動きを見せる。

 いくつもの要素をからめて、最後は意外な犯人、というか「見えない人」ものトリックに収斂させてみせる技巧はさすが。絶対に読者をあきさせない。これでもかとストレスを加えて反応を試し、いつもいらついているケイを意地悪く描いて見せているよう。自分の美学に酔ったりしないケイの中に、多くの女性達は自分を投影して見せるのかもしれない。ただ、マークのエピソードは少々でき過ぎで、このシリーズとしてはどうなのだろうか。ちょっと浮いて見えるのだが。結局、事件と関係ない(少なくとも殺人事件とは)サイドストーリーはいまひとつだと思えてしまうのである。

(★★)



逃げるアヒル/ポーラ・ゴズリング/ハヤカワ文庫

 広告代理店で働くクレア・ランデルは、ふとしたことで名うての殺し屋エジソンを目撃してしまい、彼に命を狙われることとなる。サンフランシスコ市警はベトナム戦争帰りのスペシャリスト、マイク・マルチェック警部補を彼女のガードにつけるが、罠があり内通者がありマイクの病気ありと次々と困難がクレアとマイクを襲う。必死にそれを乗り越えていくうちに二人は結ばれるが、ついに最後に深い森の中で、エジソンと決着をつける時がくる。

 アクション系サスペンス小説というところか。テンポがよくてアクションものの教科書のように次々と問題が起こってはそれを解決して先に進んでいくというもの。クレアは、物語の序盤で、彼女の自立を理由として、恋人として申し分のないダンのプロポーズを断ってしまう。彼はあげくに彼女の身代わりとして殺し屋に爆弾で吹き飛ばされてしまうのだが、それとの対比でマイク・マルチェックは描かれる。ハンサムで細やかな気遣いができてエリートとしての経歴を持つ男は、見事に却下され(冷蔵庫とともに爆死というのもきつい取り扱いだが、それ以降クレアが彼のことを回想することさえ描かれない完全な端役の取り扱い)、ベトナム戦争の狙撃兵として地獄を見てきた病気持ちで頑固で高圧的な男が選ばれるのである。生き抜くということが男の価値であるとすれば確かにこの選択はクレアにとって正しいのだが、こうまでマッチョが礼賛されるというのもキャラや物語の現実味もさることながら、読んでいる側がちょっと居心地の悪さを感じてしまう。

(★)



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